東京帰りの姫路市のプロパンガス屋

21年間、東京の表参道・中目黒で美容師をやっていて、2017年から姫路市でガス屋・保険屋・中古車屋をやっています。

なぜ、東京の美容師がガス屋なの?

思い起こせば、21年前の春です。

学生時代の頃から、

アート、音楽、映像、ファッションなどクリエイティブな物事に非常に興味があって、旅行や買い物で大阪や東京に出たりしていたのもキッカケではありますが、

高校生の進路を決める際に、

父親(河本商店の1代目社長)は、息子の私が理数系の大学進学を熱望しており、

私を進学のための学習塾に強制的に通わさせたりしていたんですが、

それが、遊びたい盛りの高校生には苦痛で苦痛で。。。
この苦痛から逃げ出すために当時私が考えた事が、

実家から通学できる関西エリアではなく、

国内では珍しい着付けをウリにしている専門学校が東京にあり、

それを都合に興味もない美容師になりたいと父親にウソをついて美容師という職業を選んだ経緯なんです。
強要されていなければ、自ずと進学していたのになぁーと思います。

そして、父親から逃げ出す
【東京切符】を勝ち取り、

姫路駅のホームで友人数名に見送られて、泣きながら上京してきた事が昨日ように思えます。

もともと、関西や姫路への愛着が強い僕は、

上京当時はよく帰りたいと思ってました。
また、城下町で閉鎖的な風土の姫路は地元志向が高く、友人たちは大阪や京都に進学したぐらいで、
東京に進学した近い友人がいなく孤独にも感じ、給与面を含め厳しい環境だった美容師見習い時代は東京から逃げ出したいと何度も思った事がありました。
その時に支えてくれたのが、店長や友人や家族(特に母親)や好きになってしまった仕事とお客さんでした。

その父親(1代目社長)も、

私が上京して2年目にガンで他界し、他界した当日は表参道のサロンで仕事中で、

口も聞きたくない父親が大嫌いだったので家族から危篤だという連絡があっても、

どうせ、病状の報告を誇張しているんだろうと思い込む自分もあり、

死に目にも会えないままのお別れでした。
他界した後に、息子に対する愛情と父親の偉大さを痛感し、

近年、残された母親が度重なる病気と入退院があり、兄2人が側にいますが一人残された母親の側にいてやりたいという気持ちが強くなりました。
もし、父親が健在であれば帰郷はしてないんだろうと思います。


もう、他界したので父親には伝わらないかもしれないんですが

天国で僕を認めてもらいたくて、父親を抜けないけど近づいてみたくて、
ウソをついて上京した東京で、
ウソをついてなりたいと言いはった美容師で結果を出してみたくて、

他界しても美容師を継続した事と、キサイ美容院を開業しました。
ただ、もっと東京でやりたかった事や、成長したい事が多々ありますが、
僕が幼少期に両親からよく聞かされていた事で、戦後に夫婦二人で食料品店を立ち上げ、

当初はミカン箱を裏返しにしてテーブル代りにする程貧しかった事業も創立50年以上になった

(株)河本商店に何か恩返しができないかと思い今回の決断となりました。 

 

 

河本グループ

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河本商店 三番めの息子 河本和浩